横浜桟橋(現、大桟橋)



横浜の顔として認知され、異国人達が降り立つのはここ、横浜桟橋でした。
横浜はここから発展し、農村であった横浜村は急激に近代へと移り変わって行きました。
当時、正面にイギリス大使館、右手に日本大通りを見て開港上の中心であった
関内地区は日本人街と外国人街に別れていました 。

これを俗に言う外国人居留地といいます。
後のお楽しみで 居留地に関してはまたあとでふれることとしましょう。

さてこの2枚の絵葉書ですが、上の写真左は今でいうとちょうど近代建築コラムでも紹介した
コンピューターセンターのあたりでしょうか?右奥は「横浜築港事務所」(後の神奈川県港務部)
の建物でなんと日本の近代建築の父、ジョサイア・コンドル*の設計になるものです。

左手に見えるのは税関で、客待ちの人力車が整然と並んでいます。
奥に見える建物は下の写真でカバーしましょう。
向かって左手に見える建物が2棟とも横浜税関旅具監視所です。(一番下の写真は
後から追加しました)

海に見える船舶は「ミナトヨコハマ」に停泊をまっているのでしょう、さすがの数です。
まだ新港埠頭倉庫(赤レンガ倉庫)も、できたか、できていない頃のお話です。おとぎ話みたいですね。 (加藤)


     Data

所在地:横浜市中区
年代 :(上)明治38年頃
   :(中)明治40年頃
   :(下)明治40年頃
備考 :関東大震災にて倒壊


横浜桟橋入口(現在の大桟橋)右奥は「横浜築港事務所」明治26年竣工

税関構内 左2棟が横浜税関旅具監視所(明治26年竣工)これもコンドルか?

税関構内その2 横に見えるのは電話ボックス。


*ジョサイア・コンドル 英国(1852〜1920)

明治10(1877)年に明治政府の依頼で英国より来日し、明治24(1891)年まで工部大学校造家科(建築学科)に勤務、
日本ではじめて本格的な 西欧式建築教育をおこなった。帝国大学造家科になっても引き続き学生の
教育にあたり、明治期のすぐれた建築家たちを育てた。(片山東熊、辰野金吾など)
また日本最初の建築設計事務所を開設した。鹿鳴館・東京帝室博物館・ニコライ堂
など多くの洋風建築も設計し、東京帝国大学名誉教師、(日本)建築学会名誉会長・名誉会員でもあった。
日本人を妻とし、日本で亡くなった。河鍋暁斎について日本画を学ぶなどの日本趣味もあった。
横浜では 山手居留地にあった「クライストチャーチ」(明治34年、現山手234番地)
「ロイヤルホテル」(明治27年、居留地87番地)などを手掛けている。(このホテルについては諸説あり)
おそらく横浜においても多くの建築を残したと思われるが、その全容ははっきりしない。
現在も桑名市の六華園(重文)、東京の旧岩崎邸庭園(重文)などに彼の建築が残されている。

コンドル来日時、齢25歳、同じく近代化され、夜明けを迎えた日本、教える方も教わる方も
いかに真剣であったか想像にかたくない。まさにその生涯は「日本近代建築の父」といえる働きだった。

神戸市にて永眠。



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